メンタルコーチング × 金メダリスト
自分の試合のときに、日本人だけじゃなくて、会場にいた世界各国の人が応援してくれたのが印象的でしたね。ポイントを取ったときは会場中がワッと沸いたことでテンションも上がりました。パリ五輪の規模は、これまでの世界選手権と比べると大きく違いました。会場はどこも満席で、スポーツ関係者だけでなく普段はレスリングの試合を見ないような一般の方もたくさん来ていて。そういう人たちがすごいテンションで応援してくれたことは、今でも強烈に覚えています。ちなみに、家族も応援に来てくれたんですが、自分よりもはるかに緊張していました(笑)。
僕自身は今回に関していえば、順調すぎるのがある意味想定外というか。いつもの海外の試合よりも落ち着いていて、自分の中で全てが上手くいく感覚でした。夜もすごく良く眠れるんですよ。いつも試合に興奮したりとか、減量もあったりとかして眠れなかったりするんですけど、今回は毎日すごくいい睡眠がとれて。まずそこが驚きました。理由としてはいろいろあると思うんですが、メンタルトレーニングを始めたことはすごく大きかったと思います。心身ともに安定して、試合前だからと高ぶり過ぎることがなかった。それが良かったと思います。
僕は選手村に着いたら部屋がめちゃくちゃ水漏れしていまして。
これはなかなかのスタートだなと(笑)。選手村の不便さについては、先に現地入りしていた競泳の選手からいろいろ聞いていたんですが、概ね想像通りでした。ただ、これまでもっと不便な国に行って練習してきたので、それよりも全然マシだなと思いながら、いつも通りのスタートが切れましたね。フランスに行ったのは初めてだったのですが、パリの街並みはすごく美しくて風情があって。ヨーロッパの世界観そのままの建物がたくさんあって、見ているだけでも楽しめました。僕は現地に入ってから3日目が試合の日だったので、着いたらすぐ体重調整をする予定でした。基本的にランニングで体重を落とすのですが、そういうときにも走りながら周りを見ていると『ああ、パリに来たんだな』という実感がすごくあって。リラックスというか、気持ちを切り替えることができました。
今回のメンタルトレーニングではしっかり準備をして、心身ともにいちばん良い状態で現地入りすることを目標としていました。こうしてそれぞれのエピソードを聞くと、3人とも冷静に客観視できていたり、ハプニングに対しても動じなかったりと自然体をキープできていて、それまで準備してきたことの成果が出ていたのではないかと感じます。
メンタルコーチングについては、格闘家の中村倫也君がコーチングをしてもらっていることをSNSを通して知っていました。去年の世界選手権が終わった段階で、さらに高いパフォーマンスを出し続けるために何かできることはないだろうかと考えたときに、ふとそのことを思い出し、メンタルコーチをつけようと考えたんです。自分自身は試合のときでもメンタルが安定している方ではあったんですが、パリ五輪までに不安を残したくなかったので、できることはすべてやろうと。それで倫也君を介してお願いして、去年の10月頃からスタートしました。最初のセッションで慶人さんから『メンタルもフィジカルと同じように鍛え続けると、これまでとは違う領域のパフォーマンスが向上していくよ』と言われて、衝撃を受けたことを覚えています。
国内の代表選考を兼ねた大会で負けたことがきっかけです。自分にとって初めての五輪がかかる試合ですごく緊張して、頭が真っ白になってしまって。実力以前にメンタルの弱さが原因で負けたことがショックでした。このままでは次の試合も勝てないと思い、なんとか状況を打開したいと慶人さんにお願いしました。メンタルのことについては知識もなく少し不安だったんですけど、レスリングの指導者である父にも相談して未知の領域だけど挑戦してみようと始めました。
僕は2人が始めたのを知って、メンタルコーチングをより身近に感じ始めたことがきっかけです。特に櫻井選手がメンタルコーチングを取り入れてからどんどん勝ち進んでいくようになって、世界選手権で優勝したときに『メンタルコーチングってすごいんじゃないか』と感じました。その後、節目の大会が終わってからちょうどいいタイミングでグループセッションに参加する機会があったんです。参加してみたら、自分が今まで知らなかったことばかりで楽しくて。『これはやるしかない!』と思いました。
アスリートにとって新しいトレーニングを取り入れるのは、今まで築いてきたもののバランスが崩れるリスクもあって、すごく勇気がいることだと思うんです。その点、3人はすでに世界で活躍するアスリートなのに、新しいことに対しても勇気を出して貪欲に取り入れようとするチャレンジ精神がすごいですよね。パリ五輪に向けてそれぞれの課題を克服したい、今の自分を超えていきたいという強い意志を感じ、そこにメンタルコーチングを掛け合わせていけば金メダルが獲れると思いました。
これまで減量がうまくいかなかったことがあり、それがネックになっていました。本来の階級は61kg級で、オリンピック出場の57kg級については、完璧な減量ができれば負けない!という自信はあったんです。減量が要だと。甘いものが食べたい衝動に駆られる時期もありましたが、セッションで「甘いものを食べないという行動そのものをトレーニングだと考えよう」と提案されました。その時、減量は単なる苦行ではなく、自分が本当に金メダルを取りたいのかを試されるメンタルトレーニングなのだ、と気づきました。甘いものを我慢すること自体が「自分の覚悟の証明」であり、「自分はこれほど金メダルを取りたい」と確信する機会になったんです。
その結果、甘いものを食べないという選択が自分を強くし、逆に楽しめるようになりました。デパ地下やスーパーでスイーツの間を通り抜けることさえも、負荷トレーニングの一環だと思えるようになったほどです。そうした考え方の変化により、「減量=常にメンタルトレーニング」という新たな捉え方が生まれ、減量との向き合い方が大きくシフトしました。今振り返ると、甘いものを我慢する戦いそのものが良い練習だったと思えます。そして、減量を通じて金メダルへの覚悟が鍛えられたことが、最終的に成果につながったのだと実感しています。
アスリートにとって減量はとても大きな課題。本人からしたら『やりたくないこと』ですが、勝つためには『やらなければいけないこと』なので、そのジレンマに悩まされます。そして、過酷な減量は身体だけでなく、食べたい欲求を抑えることや、失敗するかもしれないというプレッシャーで、メンタルもボロボロになってしまう。そこで、メンタルコーチングでは樋口選手と一緒に『減量についてどのような認識を持っているのか』を掘り下げ、課題の本質を導き出しながらリフレーミングによって嫌悪感をなくすという、これまでにないアプローチで取り組みました。結果として減量に成功したのはすごく嬉しかったです。
僕は相手によってパフォーマンスにムラが出てしまうというところが課題としてあって。そこに対してコーチングを受けながら、良い状態のときは自分がどう考えているかとか、心のあり方はどうだったかというところをしっかり見直して言語化し、頭で理解しながら再現性を高めるトレーニングを徹底しました。そうしてベストの状態の自分をアンカリングすることで、気持ちが安定してすごく目の前がクリアになりましたね。それがきっかけでパフォーマンスのムラもなくなっていきました。
これまでは試合前にケガをすることが結構ありました。軽いケガでも調整方法や練習のメニューが変わってしまうので、結果的に本番で100%の力を出し切れないことが多かったんです。今まで練習というのは『やればやるだけ良い』という考え方だったので、強くなりたいから練習量を増やしていたんですが、コーチングによって、フィジカルだけでなく、メンタルを鍛えることの重要性を指摘してもらって、すごく意識が変わりました。日々の練習も体を動かし続けるのではなく、自身と向き合う時間を作ったおかげで自らの体と対話でき、過度な練習によるケガのリスクを防ぐことができるようになりました。
セッションでは、選手の『感覚』をしっかりと言語化し、イメージの解像度を高めるために、身体知を引き出すことに重点を置いています。このプロセスにより、試合中の相手の動きや状況が予測できない不確実な状態を、可能な限り減らすことを目指します。さらに、なぜその状況が起きるのかを自ら言語化できるようになることで、どんな場面でも冷静に対応できる力を引き出していきます。
アスリートはフィジカルを鍛えるためなら筋トレをしますが、メンタルを鍛えることに関しては二の足を踏んでしまう人がまだまだ多いのかなと思います。個人的には競技力を高めるために、メンタルを鍛えることに対しても貪欲にどんどんチャレンジしてほしいです。それは現役のときだけではなくて、選手を引退した後も同じ。フィジカルと同じくらいメンタルを鍛え、学び続ける姿勢を持っていないと、そこで人としての成長も止まってしまいます。僕も忘れずに、学び続ける姿勢を大事にしていきたいですね。
アスリートは総じて競技で結果を出すことにしか目が向けられてないことが多いと思います。僕はメンタルコーチングを取り入れたことで、頭の中を整理したり、なぜ自分がこの競技をしているのか、なぜ世界一を目指してやっているのか、ということを考えたりすることで、より広く目を向けて考えていくことができるようになった。そこはすごく大きいと思います。また、自分をよく知ることで、うまくいったときの幸福感が高まるようになりました。それはモチベーションを高く保ち、競技をしていく中で『勝つことで心が満たされる』のではなく『心が満たされている状態だから勝つ』というマインドに変わるきっかけになったと思っています。
競技中に相手の分析や自分のスタイルの分析をすることが増え、頭を使う場面が多くなりました。それがとても楽しいと感じるようになったんです 。
また、メンタルコーチングで得られたことは、競技以外のさまざまな場面でも応用できると感じています。私自身、競技で結果を出すことだけにフォーカスするのではなく、自分が本当にやりたいことや、どうありたいかを考えることで、日々の生き方がより豊かになったと思います。
オリンピックで勝つことに集中していると、つい金メダルを取ることが最終目標だと思ってしまうことがあります。でも、今はそれを一つの通過点と捉えることで、優勝は必然だったと考えられるようになりました。
そして、いつも通りの自分をキープしたまま、その先に目を向けて走り続けることができる――そういった考え方を身につけられたのも、メンタルコーチングのおかげだと感じています。
このメンタルトレーニングやメンタルコーチングは、ただポジティブな思考や前向きな姿勢を促すだけではなく、選手自身の内面や考え方の土台に働きかけ、変化を生み出すものです。オリンピック選手のようなトップアスリートにとって、優れた技術や努力は欠かせませんが、それだけでは真の限界突破にはつながりません。心の深い部分から整えることで、競技力をさらに引き上げることが可能になると考えています。
今回の金メダルも、表面的なパフォーマンスだけでなく、内面の考え方や捉え方を根本から変えた結果だと感じています。メンタルコーチングは、競技の成果を高めるだけでなく、選手自身の人生を豊かにする力を秘めています。このような視点が、日々の競技や生き方に新しい気づきを与えられることを願っています。